我は、いきなりステーキ。

 我は、真の「いきなりステーキ」なり。本当にいきなりステーキを提供する。コンビニで缶コーヒーを買ったとき、「Suicaで」と言いながら、店員にステーキを提供する。満員電車で思いかけず、至近距離で向き合う形になったままお互い動けなくなって気まずい空気が流れた時にステーキを提供する。ミラーレスカメラで夕焼けを撮って、それに「#ファインダー越しの私の世界」とつけてインスタグラムに投稿している女子にステーキを提供する。
 「いきなりステーキ」を名乗ってはいるが、所詮は店を訪れた客に注文を受けてからステーキを提供する店と我を比べたら、どちらがより「いきなりステーキ」かは一目瞭然。我は、「いきなりステーキ」の名をかけて全面戦争をしかける。


 そう決意して帰ると、家があったはずの場所に「いきなりステーキ武蔵境店」の文字が……

メメント森のサドンです。

 うちの家系は急死の家系で、早死にをする人から長生きする人まで様々いるんだけど、全員急死している。病気にかかって入院して、ベットで死ぬということがない。事故に遭ったり、心臓が爆発したり、とにかく突然死ぬ。
 この原因は旧藩のお抱え剣士だった先祖と西洋妖怪の戦いにあるんだけど、長くなるから今回は割愛するね。
 そういう訳だから、うちの家訓は「気高く生きろ」ということになっている。いつどこで死ぬかわからないから、常に人に恥じない生き方をしろということだ。私の大叔父さんは、不倫相手との情事の最中に腹上死したとかなんとかで、一族の恥と言われている。
 まぁ私だって死に際に恥を晒したくはないから、常日頃から気をつけている。「死ぬ気でやる」という言葉があるけれど、私も絶えず死を意識して生活しているので、人に比べてもそこそこ頑張っていると思うし、成果も出ている。こういうところは家系に感謝だ。
 問題は内面的なもので、こればっかりは自分でもコントロールがうまくいかず、正直困っている。内面的っていうのは、つまり死ぬ間際に何を考えているかってことだ。
 理想を言えば世界平和のこととか、そういう高尚なことを考えている時に死にたいんだけど、私は集中力がないから、ついついくだらないことを考えてしまう。
 何を考えている時に死んだかなんて、人にはわからないっていう人もいるけど、やっぱり死に顔に影響すると思う。いやらしい事を考えながら死んだ人と、世の中に蔓延する不当な差別について考えながら死んだ人では、そりゃあ死に顔にも差がつくだろう。
 だから私は、できるだけ児童労働のこととかを考えながら過ごしているんだけど、この前行ったドン・キホーテの店内BGMが頭から離れなくて困ってる。考えないようにとすればするほど考えちゃう。


  ドンドンドン♪ドンキ♪ドン・キホーテ
  ボリューム満点♪激安ジャングル♪(ジャングルだ〜)


ーーここでこの手記は途切れている……

MISEINENの主張

 我々は、きちんと主張しなければならない。「虫を怖がる女は別に可愛くない」ということを。

 先日、大事な会議があった。私はそこで新しい提案をするために、この一ヶ月準備をしてきた。協力してくれた周りの先輩後輩のためにも絶対につぶされる訳にはいかない。できる限りの根回しもしてきたし、あとは私のプレゼン力にかかっていた。
 いよいよ私が発言する番になった時、蚊以上ハエ未満といった大きさの虫が乱入してきた。すると、よその部署の偉い人が「キャーッ」とか叫んで大騒ぎしはじめた。しばし会議は中断し、参加者は虫を追い出すために右往左往することとなった。
 まぁ5分にも満たない程度の時間だったろうが、会議の緊張感は吹き飛んでいた。みんな、どことなくやり切ったような表情をしている。
 案の定、私の話はなんとなく上滑りしたような感じになってしまい、結論も先送りになってしまった。くそっ、虫ごときで大騒ぎにならなければ、こんなことにはならなかったはずなのに。

 小さな虫くらい無視すればいいのだ(ムシだけに)。だいたい大きさの対比から考えれば、虫の方が人間を怖がっているに決まっている。それなのに虫を怖がるやつが出てくるのは、「虫を怖がる=かわいい」という価値観がどこかにあるからだ。逆に虫を怖がらずに、素手で触ったりできたら「男らしい」と評価されることもあるだろう。
 これだけジェンダー意識が高まってきた現代社会において、虫を怖がることで可愛さを表現できると考えること自体が時代錯誤なんだよ。虫を怖がることで可愛さをアピールするやつも、虫を怖がるやつにか弱さを感じているやつも、どちらも罪人だ。虫が人間と同じサイズだったらともかく、あんな小さいのに大げさに怖がるなんて……

「本当の恐怖を教えてやる」

 怒りに我を失った私は、ハエと共に物質転送機に飛び込み、ハエと融合した。ハエ人間になった私は、愚かな人間どもに恐怖を与えるべく、再び会議の場に姿を現すのだが、意外なことに誰も大騒ぎせず、淡々と前回の会議での提案が承認されたことを報告されるのであった。

「Be afraid.Be very afraid.(怖がってください。とても、とても怖がってください)」

フィンガーボール

 俺は動物園生まれ動物園育ちの生粋の都会っ子だ。サバンナなんて見たことも聞いたこともねぇ(ホントは聞いたことくらいある)。コンクリートの床と鉄格子が俺の生きる場所だって思ってた。ちょっと前までは……
 最近、動物園では「行動展示」っていう展示方法が流行っているらしい。今までみたいに檻の中で飼うんじゃなくて、自然に近いような環境を用意することで、その動物本来の動きを見せる方法だ。
 俺のいる動物園でもその行動展示が導入されることとなった。俺は一旦別の動物園に預けられ、しばらくして帰ると俺の動物園は全然別物に変わっていた。なんか、草とか生えてて、高低差とかがある。
 はっきり言って落ち着かない。「これがサバンナぽさですよ〜本来の生育環境に近いんですよ〜」とか言われても、俺はサバンナとか知らねぇし。何?草を何?どうしたらいいの?食べるの?上で寝るの?だったらいつもの臭い毛布の上の方が落ち着くんですけど。
 まぁそういうことで新しい環境に慣れることができず、右往左往してたんだけど、さらに厄介なことに新入りがやってきた。やべぇ。ナメられる訳にはいかねぇ。
 動物の世界では、動物園育ちはナメられる。弱肉強食の野生の世界で生きてきたやつの方が箔がつくのだ。だから俺はサバンナ育ちのふりをすることにした。この新しい環境を支配してやるぜ。
 俺は訳のわからない高低差とか水たまりとか木を組み合わせたものの中を縦横無尽に動き回った。その甲斐あってか、新入りも俺に一目置いているようだった。
 新入りも俺と同じように行動している。よかった、合ってたんだ。
 そんな風に先輩風を吹かせていたところ、掃除にきた飼育員が水を飲んでいる俺に言った。

「そこ、トイレだよ」

免許皆伝? 私の新しい試練

 高校卒業してから免許取るために教習所通い始めたんだけど、そろそろ6月になろうとしている現時点で、まだ取れてない。ほかにやることいっぱいで、なんかサボりがちっていうのもあるんだけど、最初の方の学科でつまずいちゃったのが大きな原因。
 それは「かもしれない運転」と「だろう運転」。「子どもが飛び出してくるかもしれない」と考えて注意する「かもしれない運転」が推奨されて、「きっと大丈夫だろう」と油断する「だろう運転」はいけないものだと教わった。
 でもさ、これって別に逆でもよくない? 「子どもが飛び出してくるだろう」でも成立しない? するよね?
 授業でこの話を聞いた時から、私は悪者扱いされる「だろう」が可哀想で可哀想で。そして、のうのうと正義面してる「かもしれない」が憎くて仕方なくなった。
 だから私は、あえて「だろう運転」で技能教習に臨んだ。もちろん「子どもが飛び出してくるだろう」という正義の「だろう運転」だ。
 しかし、教官はそんな私の心を見抜いた。
「あんた今、だろう運転をしただろ?」
 もちろん、外から見た私の運転は安全に気を配った正しい運転だ。けど、教官はそんな私の内面に潜む反社会的なメンタリティを見逃さなかった。
 でも、ここで負けるわけにはいかない。不当な扱いを受けている「だろう」のために。権力に虐げられている全ての弱者のために。
 そういう訳で、私の免許取得は滞っているんだけど、教習所の追加料金がかかっちゃってもいいよね? お父さんいつも「一度はじめたことを途中で投げ出すな」って言ってるし。

思い出のダイナソア

 高校の時の地学のサカイ先生は、新任でシュッとしていたので、私はほのかな憧れを抱いて地学準備室に通った。そこで同じように鉱石なんかを眺めていたのがユミとカオリだった。最初の話題は「天空の城ラピュタ」についてだったと思う。3人ともラピュタが好きで、私たちはポムじいさんに大いなる共感を寄せ、盛り上がった。そうしているうちに我々は仲良くなり、いつのまにか「地層を読む会」、通称・地読会が誕生した。



 ちまたの女子たちは、彼氏が出来ると仲間を集めて報告会を開くらしい。自慢するとともに、オトコがデキてもあたしはこのコミュニティーの一員ですよーってことをアピールする目的があるものと思われる。結成から15年が経った我々地読会のメンバーに今さら彼氏が出来るとは考えられないが、それでも急に呼び出されると少しだけドキッとする。
 今回呼び出したのはカオリだったが、要件は恐竜の化石を見に行こうということだった。先日の地震の影響で、いい具合に恐竜が見える地層が隆起したらしい。
 その週末、さっそく私たちはローカル線とバスを乗り継ぎ、恐竜に会いに行った。


 世界で一番短い小説は、グアテマラの「恐竜」という小説らしい。「目を覚ますと、そこにはまだ恐竜がいた」という一文のみだそうだ。小説に必要なのは「始まり」と「終わり」だ。この一文は、書き出しとしてもオチとしても使えて、重なった「始まり」と「終わり」の間に無限の物語を想像することが出来る。そういう意味で私はこの小説をいい小説だと評価している。というようなことを話したら、ユミは「でも、私もっと短い小説読んだことがある気がする。筒井康隆あたりが書いたやつ」と話の腰を折った。
 恐竜の化石は見事なものだった。見事すぎて作り物みたいで、逆にあんまり感動がなかった。生前どんな行いをすれば、8500万年も綺麗なままでいれるんだろう。
 私が白亜紀の生活に思いを馳せているとカオリが言った。
「私、結婚しようと思うんだよね」
「え、嘘。誰と」
「うーん、サカイ先生」


 あまりに衝撃的すぎて、私は何も言えなかった。ユミはカオリに根掘り葉掘りきいていたようだったが、私はどうやって帰ったかすら思い出せなかった。
 ただひとつ、思い出したことがある。私は、ポムじいさんに憧れて地学準備室に通っていたのではなかった。私は「耳をすませば」の雫に憧れていたのだった。素敵な恋と、それから、誰かに君はダイヤの原石だって言われたかったのだ。決して石たちの声を聞きたかったわけではない。


 その夜、私は夢を見た。サカイ先生が恐竜にまたがって飛んでいる夢だった。15年経って40を目前にしたサカイ先生は、筒井康隆に似ていた。

荒野のハイエナ

 俺はハイエナと呼ばれている。たぶん。


 家の向かいのスーパーは9時閉店で、俺はいつも8時半頃そのスーパーに行く。むろん半額シールの貼ってある商品が目当てだ。8時ではいけない。その時間ではまだ2割引きシールだ。そうして俺は賞味期限の近づいた半額食品で夕飯を作り、食べ、寝る。
 きっとパートのおばちゃんたちは、俺のことを裏で「ハイエナ」と呼んでいるに違いない。くそっ。たしかに俺は、毎日半額シールを狙っているが、それは別に犯罪じゃないし、洗剤とかトイレットペーパーとか、日用品は普通に買ってる。それなのに、そんな不名誉なアダ名をつけられている(かもしれない)なんて。
 だいたい俺はお金のために半額シールを買っているわけじゃないんだ。半額シールは当然その日売れ残った商品に貼られている。だから、半額シールが貼ってある商品はそう多くない。俺はその日の献立を決めるのが苦手だから、あえて選択肢の少ない半額シールを使うという枷を自分に課しているのだ。選択肢が多いほど、人は選ぶことが難しくなり、また自分の選択を後悔することが多くなるということは、心理学的にも証明されている。それなのに、くそっ。ハイエナと呼ばれている(かもしれない)なんて。


 アダ名のことを考えると、スーパーへ向かう足取りも重くなった。店員さんが俺を笑っている気がする。いっそ定価の商品を買おうとも思ったが、膨大な選択肢の前に身動きが取れなくなってしまった。
 このままじゃ生活に支障が出てしまう。追い詰められた俺は解決策を閃いた。ハイエナと呼ばれることに納得がいかなくてストレスになっているのだから、ハイエナと呼ばれることに納得できればいいのだ。
 さっそく俺は黒い斑点のついた灰色のジャケットを着こみ、鼻と口の周りを黒く塗り、8時にスーパーへ向かった。そして、2割引きのシールが貼られた商品の周囲を(四足歩行で)うろうろした。8時半、ついに半額シールが貼られた商品を、俺は素早い動きで捕らえ、口にくわえたままレジに持っていった。
 これならハイエナと呼ばれても仕方ない。でもそれはネガティブな比喩的意味のハイエナではなく、動物としてのハイエナを指したアダ名だ。ついに俺はハイエナと呼ばれることを受け入れることが出来た。しかし、
「レジ袋はご利用ですか」
 その一言で頭が真っ白になってしまった。こういう時、本物のハイエナはどう対応するんだ。ハイエナの鳴き声を調べておくべきだった。
「あ、へへっ」
 俺は思わず照れ笑いでごまかしてしまった。くそっ。俺のなりきりは不完全に終わってしまった。最後の最後で素の、人間の、俺自身が出てしまった。今日からこのスーパーでの俺のアダ名は「ハイエナモドキ」だろう。悔しいが、自分の準備不足を責めるしかない。


 家に帰って調べると、ハイエナの鳴き声は人間の笑い声に似ているらしい。ということは! あの照れ笑いでOKなんじゃないか! やった! 俺はハイエナだ!
 その日、スーパーの裏でパートのおばちゃんが俺を「ハイエナ」と呼んでることを想像して、俺は眠りについた。