動物占いとイヤな小学生

 私は世にも珍しい「占いが嫌いな女子小学生」だった。チープでキラキラしたファンシー文具やおまじないは大好きだったけど、なぜか占いは嫌いだった。血液型占い、十二星座占い、ちまたには占いが溢れていたけれど、その全てが嫌いだった。 あの頃は、まだ幼くて言語化できなかったけど、嫌いだった理由は人間を型にはめて理解した気になることに対する違和感だったのではないだろうか。こんなにたくさんの人間が、色々なことを考えて、色々なことをしているのに、たかだか十数パターンに類型化して語るなよ。占いなんて全部ウソっぱちだ。そういうイヤなことばっかり考えている小学生だった。
 当時、動物占いが大ブームだった。あれも誕生日で人間を何パターンかに分類するタイプの占いだ。クラスの女の子たちは、自分がチーターだとかなんだとか言って、お互いの相性を占ったりしていた。
 私は、そのブーム自体にイライラしていた。そして、そのブームに対抗するべく、オリジナルの動物たちを黙々と作成した。ラクダは口が軽く秘密を守れない。ヤギは相手によって態度を変える。オットセイは他人を見下している。
 そんな陰鬱な作業に没頭しているとも知らずに、ユミカちゃんが私に「ミキちゃんは何の動物だった?」と尋ねてきた。私は「オットセイだったよ」と答えた。ユミカちゃんは動物占いの本を一生懸命めくってから「オットセイと友だちになる動物はいないよ」と悲しそうに言った。


 動物占い、当たってるじゃん。

夏の怪談シリーズ「神隠され」

 誰かとはぐれて一人ぼっちになった時、それはやってくる。そして、それは一人ぼっちのあなたと入れかわり、それはあなたに、あなたはそれになる。私は、家族旅行の最中に電車に乗り遅れてしまい、それに捕まってしまった。それは私に代わって家族旅行を続けたのだろうか。

 それは「神隠され」という。神隠しに遭ったもののなれの果てだ。私のような大人が神隠されになるのは珍しいらしい。大抵は迷子になった子どもとかが神隠されの餌食となる。神隠されは、一人ぼっちの人間を見つけて入れかわると、その人間の性格や記憶を引き継いで、その人間として暮らすらしい。だんだんと元の記憶は消えていくが、自分が神隠されだという意識だけは残り続ける。
 私は人混みで友人とはぐれた若者と入れかわった。だんだんと、昔のことが思い出せなくなってきた。ただ、足の指を蚊に刺された時のかゆみのように、ずーーーーーーっと自分が自分でないという感覚がつきまとっている。

精神固定剤

 気持ちが落ち着かない。ちょっとしたことで、すぐに落ち込んじゃう。一度落ち込んじゃうともうダメ。何もしたくない。したくないというか、できない。できなくなっちゃう。心のパワーみたいなのが枯れちゃう感じ。

 この前は、バイト中につまんないミスをして、お客さんからめちゃくちゃ怒られた。それでもう気分が沈んじゃって、そのままバイトの途中で家に帰って、回復するまで3日間ずっと何もせず家にいた。しょうがなくバイトも学校も休むことになっちゃった。

 さすがにこのままじゃマズいと思って、病院に行くことにした。ちょっとお医者さんとお話をしたら「お薬出しときますねー」と言われた。そしてもらったのが精神固定剤。

 精神安定剤ではなくて、精神固定剤。飲んだ時の精神状態で、半永久的に固定されるという薬だ。一回一錠。ここぞというタイミングで飲んでくださいとのこと。

 だから、友だちと浴衣で夏祭りに行って、最高に楽しい気分だった時に、さっと薬を飲んだ。でも実は、その時足の指を蚊に刺されてたんだよね。

 そういう訳で、ずーーーーーーっと足の指がかゆい。かゆみって精神状態だったの? でも、いま最っ高にハッピーだよ☆

夏の怪談シリーズ「ぼたもち」

 「棚からぼたもち」っていう諺があるけど、ぼたもちって何だろう? そんなもん棚に置いた記憶はない。しかも「棚から」なんなの? 落ちてくるの? 置いてもないのに棚から落ちてきたら怖い。仮に棚に置いていたにしても、落ちてきたら困ると思う。だって落ちてこない前提でぼたもちを置いたわけだから。

 まぁたぶん、ぼたもちは餅だろう。棚に置くくらいだから、まだ調理してない固い状態の餅だと思う。でも、“ぼた”って語感からはちょっとベタベタしてそうなイメージが浮かんでくる。だけどベタベタした餅を棚に置くのはおかしいしなぁ。

 人間は未知のものを怖がる性質がある。よく知らないものに不用意に近づくのは危険だからね。生物として、生存率を高めるプログラムだ。私はいま、ぼたもちが怖い。

 ぼたもちの正体を考えているうちに、私のぼたもちのイメージはどんどん凶悪化していった。置いた覚えもないのに棚に現れる黒いベタベタした塊。食べると甘いが、それは生き物の生命エネルギーを吸っているからだ。ある程度成長すると、ぼたもちは自然と棚から落ちてきて、人間に取り憑く。「棚からぼたもち」という諺が、「思いがけない幸運」というポジティブな意味になっているのは、取り憑かれた人間が広めたウソ。本来は「棚からぼたもち」という諺は「何もかもを捨てていますぐ逃げなくてはいけないような危険な状況」という意味だ。

 そんな話を妹にしたら、バカにされた。でも妹もぼたもちのことを知らなかった。調べればいいじゃん、と言ってスマホを取り出した妹の頭上にぼたもちが……

アリゲーター・グラディエーター

 アリゲーターもクロコダイルもワニの種類の名前だけど、どちらかといえばクロコダイルの方が獰猛らしい。とはいえアリゲーターが温厚かというとそんなことはなく、あくまで“相対的に”温厚という話で、実際には獰猛だ。

 なんでこんなことを知っているのかというと、私の地元では「ワニ祭り」というお祭りがあって、毎年5メートル級のアリゲーターと選ばれた村の男が戦うという風習があるからだ。

 文字通り命がけの戦いになる。村には半径2.5メートルほどの大きな穴(ワニ穴)が掘ってあり、祭りの前日に鉄格子でそれを2つに区切る。片方にワニを、片方に福男(村人の投票で選ばれた戦う男)が入る。ワニと福男は一晩向かい合って過ごす。ワニを適度に飢えさせるためと言う人もいるが、私はここでワニと福男の間に特別な絆ができるんだと思う。(しきたりでこの晩ワニ穴に近づくことは禁じられているので、本当のことは誰にもわからない。)

 祭りの当日になると、村中の人がワニ穴の周囲に集まり、ワニか福男か、どちらかのスペースに餅を投げ入れる。別に勝つ方を予想して入れるとか、そういうことではない。村人がそれぞれの考えでどちらかに餅を投げ入れる。母はいつも勝ちそうな方に入れると言っていたが、私は負けて死にそうな方に餞別の意味を込めて餅を入れている。(ワニ祭りの最後はどちらかの死によって決まる。)

 村人全員が餅を投げ入れたら、人間の膝のあたりまで水を入れる。そして、鐘が鳴らされ、鉄格子があがる。

 この年の福男もハリマさんだった。1996年に31歳で初めて福男に選ばれて、見事に勝利した。それ以降、村人の支持を得て毎年福男に選ばれている。ハリマさんはボンベ配送業の仕事をしていたが、ワニ祭りに入れ込みすぎて、自宅にワニ穴を再現したものを作り、日夜ワニの等身大模型と戦うようになり、リストラされた。

 鉄格子が上がった瞬間から、ハリマさんは動いた。鉄格子はゆっくり上がっていくので、高さの低いワニの方が、先に相手のスペースに入り込みやすい。この最初の一瞬で勝負がついてしまったことも少なくないらしい。ハリマさんはそんなヘマはしない。むしろ、ワニよりも先に動いて背後をとる。

 背後をとるのはワニと戦う時の定石だが、ワニは力も強く、皮膚も硬い。攻撃が通らない。結果顔のあたりを狙うことになる。そうすると、当然ワニのアゴにやられてしまうリスクが高まる。スリリングな展開は何度見ても慣れることがない。ワニ祭りは無言で見守るというしきたりなので、みんなジッとワニ穴を見つめているが、心の中ではハラハラしていることだろう。

 ワニの鋭い爪がハリマさんの腕を裂いた時、無言で行われるはずのワニ祭りに人の声が響いた。

 

「何をやっている! やめろ! やめろ!」

 

 県警だった。制服を着た警察は、村の人たちをワニ穴から引き離した。私もワニ穴から離れたところに連れていかれたので、詳しいことはわからないが、ワニ穴での戦いを止めようとして、ワニかハリマさんに何人かの警官がやられたらしい。

 警察もどう処理していいかわからなかったのか、特にこれといった処分はなかった。ただ、ワニ祭りは非人道的で危険だとして、次の年からワニの着ぐるみを着た人が福男と相撲をするイベントに変わった。ハリマさんもどこかへ行ってしまった。

 

 

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父と旅行の思い出

 小さい頃の写真を見ると、海にスキーに色々なところに連れて行ってもらっていたことがわかる。海外旅行こそなかったけど、最低でも年に1回は家族旅行があったみたいだ。いまになって、ようやく父のスゴさとありがたさがわかるようになったが、正直旅行の記憶はあまりない。

 家族旅行の思い出で、強烈に私の記憶に残っているのは、どこかに新幹線で旅行した時のことだ。父は駅弁を買いに行っていて、私たちに遅れて乗車することになっていた。

 ところが、出発の時間が近づいても父は新幹線に乗ってこない。母も不安そうな顔をしている。少しして、窓の外に家族の分の弁当を抱えた父の姿が見えた。しかし、無情にも新幹線のドアは閉まり、絶望した顔の父をホームに残して出発した。

 今のようにケータイなどない頃の話である。私はうろたえた。もう二度と父には会えないような気がして泣いた。最低の旅行の幕開けだ。母は「パパは大人だから大丈夫」と言って私を慰めたが、信じられなかった。

 私たちは父を置いて、その日の宿に向かった。そして、その部屋に行くと、なんとすでに父がそこにいたのだ。父は駅弁を食べながら、こともなげに「遅かったな!」と言った。この日ほど父が頼もしく見えたことはない。私は安堵の気持ちからまた泣いた。

 母は弁当を全部食べてしまった父にブチ切れていた。

 

(小さい頃の記憶なので、細部が曖昧なのですが、あの日どうやって先回りしたのか父に聞いても「そんなことあったっけ?」と言います。もしかしたら、私の本当の父は、あの日駅に置いていかれたままで、あの日を境に入れ替わってしまったのかもしれません。)

Educational objective is watching you

 通勤途中の小学校の校舎の屋上には、学校目標だろうか「やさしく かしこく たくましく」という看板が立っている。こういうの昔からあるよなと思って、なんとなく自分の母校のホームページを調べたら、教育目標が「考える子 やさしい子 たくましい子」だった。似てる。

 気になって色々な小学校の教育目標を調べたら、大きな傾向があることに気がついた。ほとんどの小学校で教育目標は3本だてになっている。そして、その内訳は「やさしい・なかよく・思いやり」などの①精神的なもの、「かしこい・考える・進んで学ぶ」などの②勉強に関するもの、そして「たくましい・元気・強い」などの③健康に関するもの、この3つに集約される。

 私は急に恐ろしくなった。全国各地の小学校で同じような目標のもとに児童が教育されている。ドッヂボールに興じている時も、牛乳の一気飲み対決をしている時も、授業中に手紙を回している時も、子どもたちは「やさしく かしこく たくましく」というスローガンに見つめられているのだ。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるビッグ・ブラザーのようだ。

 「やさしく かしこく たくましく」が目標とされているということは、人間が本来「いじわる おろか ひんじゃく」であることを逆説的に示している。現状がそうでないから目標として成立するわけだ。

 でも、それでいいじゃないか。私は人間の愚かさを愛する。昨日なんてリンスをしようとして間違えてシャンプーのボトルをプッシュするという行為を2回繰り返してしまった。おかげで3回も髪を洗うことになってしまった。我ながらおバカで可愛い。

 「たくましく」という目標のもとで、病弱な人はどうすればいいのだ。むしろ、たくましくない人も、そのままで大丈夫な社会こそが望ましい社会なのではないか。「やさしく」もそうだ。時には他人よりも自分を大切にしなきゃいけない。そういう柔軟性を持つ必要がある。

 私は人間の自由を愛する戦士として、例の小学校に忍び込み、目標の書かれた看板を書き換えた。「たまにやさしく おろかでもかわいく たくましくなくてもだいじょうぶ」

 これで子どもたちの未来は守られた。新しい看板を見ながら、私は穏やかな気持ちで出社した。

 オフィスの壁には「お客様に感動を 社会に新しい価値を 一人ひとりが主役」という文字が掲げられていた。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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