観覧車怖すぎる

 タナトスがありあまる。だからホラー映画が好きだし、辛いもの好きだし、鼻にもピアスをあけた。遊園地に行けば、当然絶叫系のアトラクションに乗りまくる。

 でも最近気づいたんだけど、遊園地でいちばん怖いアトラクションって、もしかして観覧車なんじゃないかな。

 まず、身体を固定する安全バーの類のものがない。すごく心もとない。それから、ジェットコースターよりも最高到達地点が高い場合が多い。位置エネルギーの恐怖。

 唯一の欠点はスピードが遅いことなんだけど、発想を変えれば、これはむしろ遅い方が怖いとも言えるんじゃないか。たとえば、ホッケーマスクを被った殺人鬼がやってきて、ゆっくりゆっくり追い詰めてくるのと、超スピードで襲ってくるのならどっちが怖い? 超スピード? ごめん、例えが悪かった。

 ジェットコースターに乗っている時に、1番ドキドキするのは、やっぱり最初の上り坂だと思う。観覧車はそのドキドキする時間をより長く味わわせてくれる。やっぱり最恐アトラクションだ。

 小さい頃、犬が怖かった。特にダックスフンドが怖かった。ダックスフンドがあのようなコミカルな体型をしているのは、アナグマ狩りように品種改良されたからだと聞いて戦慄した。

 人間は、自分たちの都合で1つの生命の形をデザインしたのだ。神をも恐れぬ所業。人間の利己的で傲慢な行いに震えるほど恐怖を覚えた。

 実は、観覧車にも同じような、人間存在の恐ろしさが隠れている。観覧車の起源は19世紀の終わりにシカゴで開催された万国博覧会にある。

 「見る」という行為は、ある意味で暴力的だ。そこには見る側と見られる側という序列が生まれる。古代にも「国見」という、支配者が高いところから自分の土地を望み見て、その所有を確認する儀式があったそうだ。

 つまり、観覧車に乗るということは、その会場を擬似的に支配することであり、俯瞰する視線を獲得することは、天から我々を見ている神に代わることと言えるのだ。観覧車はそういう人間の欲望の象徴だ。やっぱ観覧車怖すぎる。

感動の感度が3000倍になった

 「歳をとると涙もろくなる」っていうけど、本当かな。本当だったらいいな。

 中学の卒業式の時、同じグループだった子たちがみんな泣いているなか、あたしは泣いていなかった。みんなと離れ離れになることは悲しいと思うんだけど、この日を境に環境が大きく変わるってことが、なんとなくピンとこなかった。

 みんなから「なんで泣かないの?」的なことを言われたが、うまく答えられなかった。その日以来、その子たちとは会っていない。

 辞書によれば、あたしたちくらいの年頃の女子を「箸が転んでもおかしい年頃」というらしい。なんでもないようなことでも面白くなっちゃう年頃って意味だ。

 たしかに、あたしの周りの子たちはみんな楽しそうだ。かっこいい男の子の話とか、恋バナとか、スマホで写真撮ったりとか、なんでもかんでも楽しそうにしている。でも、あたしはやっぱりピンとこない。ピンとこないけど、それがバレるとなんとなくヤバいような気がして、楽しげな雰囲気を出して過ごしている。

 また卒業式がやってきた。たぶん、みんなはまた泣くだろう。あたしは泣けるだろうか。「歳をとると涙もろくなる」って言葉を信じるなら、前回の卒業式から3年の時が経って、あたしは3年分涙もろくなっているはずだ。でも正直自信がない。

 卒業式の予行も近くなり、また泣けないんじゃないかと不安になったあたしはドラッグストアに行った。感動の感度を6倍にする薬を買うためだ。こんなのを飲むのは初めてのことだったけど、予行の時に飲んでみた。

 最高の気分だった。まず、看板が面白い。「祝 卒業式」って書いてある。祝だけ赤字だ。めでたい文字なのに、赤字って、ウケる。みんなで同時に立ったり座ったりするのもウケる。校歌の出だしが揃わなくてウケる。歌詞も、近くの山とか川とか讃えててウケる。みんなもウケてて、式典らしい厳粛さとか全然ない。ウケる。そんなウチらを見て、教頭がキレた。ウザい。ウザいけど、「キミたち!」と言いたくて「キミたぴ!」って噛んだ。ウケる。みんなウケすぎて、会場が割れるかと思うくらい震えて、震えたこと自体にまたウケて、それで体育館が割れた。ウケる。

 その後の調査でわかったんだけど、卒業生約500人のほとんどが、感動の感度を倍増させる薬を服用していたそうだ。だから、あたしたちの卒業式は全国でも初めてのドーピング検査が行われる卒業式となった。入場前に検尿をすることになって、紙コップにおしっこを注いでる時、なんかわかんないけど、シュールでウケた。

ブックオフ円環構造

 じいちゃんが死んだ。じいちゃんはすごい読書家だった。以前から自分が死んだら、本棚は俺に譲りたいと言っていたらしく、じいちゃんの本棚は俺のものになった。

 じいちゃんの本棚はでっかかったけど、本はこれに入るだけってばあちゃんと約束していたらしい。だから、この本棚にはじいちゃんが厳選した良書だけが並んでいる。

 俺はその本を全部ブックオフに売った。そこそこの額になった。

 「悪銭身につかず」って言葉があるけど、そのお金はすぐになくなった。冷静になって考えると俺はすごく酷いことをしてしまったんじゃないだろうか。正直、後悔してる。

 じいちゃんの本は全部ブックオフの中にある。本棚を見れば、その人の頭の中がわかるっていう話を聞いて「いけすかねぇ〜〜」と思ってたけど、今はじいちゃんの頭がすっぽりブックオフの中に収まっているようなイメージが俺の中に浮かんでいる。本当は俺が受け継ぐはずだったのに。

 もし、俺が売った本を誰かが買ったら、それはじいちゃんの一部が誰かに買われたということだ。そうやってじいちゃんはいくつかの断片になってブックオフを旅立って行く。じいちゃんの本を読んだ人は、一部分じいちゃんと化す。こうやってじいちゃんは拡散、増殖していくんだ。

 そして、その中の一人が新しく本を書く。その本は何%かじいちゃんで出来ている。その本がまたブックオフに売られたら、じいちゃんがブックオフに帰還したも同然だ。こうやって、じいちゃんはブックオフを媒体とした円環構造の中に取り込まれて永遠の存在となる。

 今日も俺はじいちゃんに会いにブックオフへ行く。

古時計が聞けない

 履歴書の長所欄にいけしゃあしゃあと「責任感が強い」と書いてしまう僕ですが、バイトをバックれて辞めたことがあります。でも、それもこの責任感の強さ故なんです。ここに懺悔します。

 18の時に静岡から上京して西東京の大学へ通いはじめた僕は、オシャレな生活に憧れて、とにかく気合いがみなぎっていました。いま考えると、もう少し肩の力を抜けよって感じなのですが、当時は必死でした。

 バイト先はカフェでないとと決めていました。しかも、スタバとかドトールではダメです。個人経営の、できれば夜はバーとして営業しているところを探しました。何軒かアタックして、日本茶中国茶のカフェで働くことになりました。(いま思うと、静岡出身だから採用されたのか?)

 そのお店は、普通のマンションの中にあり、そういう隠れ家チックなところも気に入りましたし、内装もアンティーク調でオシャレでした。店内には古時計(「こどけい」と呼ぶのがマニア的には正しいらしい)がたくさんあって、3の倍数の時間になると一斉に鳴るというワクワクするような演出もありました。(すぐに飽きましたが)

 バイトをはじめてしばらくした時、近くの高校の制服を着た女の子が店に来ました。見るからに文学少女といった趣です。(といっても、これは悪い意味。根暗そうで、本を読むということで周囲との差異化を図っているような感じ。)その子は店に入るなり「素敵なお店」とつぶやきました。ジブリ映画『耳をすませば』的世界観に浸っているご様子。

 とはいえ、僕も僕でそういう世界観で生きていたので、調子に乗って話しかけたりしました。その女の子から「喫茶店にいる落ち着いた雰囲気のお兄さん」という風に見られるのが嬉しくてたまらなかったのです。その女の子はそれなりの頻度でうちの店にやってきたので、すぐに顔見知りと言っても差し支えないくらいの関係になりました。

 ある日、女の子が恥ずかしそうに紙の束を差し出してきました。一瞬、ラブレターかなとも思いましたが、それはその子の書いたオリジナルの小説でした。まんま『耳をすませば』的展開。「感想を聞くまで帰りません」と言われそうな雰囲気でしたが、「仕事中に読むわけにはいかないから、明日までに読んでおくね。」と返事しました。

 帰ってから、その小説に目を通すと、タイトルは『天使と猫の古時計』でした。

 それを見た瞬間、猛烈な恥ずかしさが僕を襲いました。その小説に対してではありません。それまで僕が生きていた世界観すべてが猛烈に恥ずかしくなったのです。

 僕は、お店に行って、あの女の子に「あなたの切り出したばかりの原石を、しっかり見せてもらいました。よくがんばりましたね。あなたはステキです。」的なことを言わなければなりません。でも、どうしても恥ずかしくなっちゃって、それができないのです。あんなに気持ちよかった「喫茶店の素敵なお兄さん」役が、いまはもう抹殺したいくらい恥ずかしいのです。

 こうして、僕はバイトをバックれました。今でも古時計の音が聞こえると、恥ずかしくて「ああああああぁぁぁ」と叫びたくなります。もう二度と古時計は聞けません。あの小説は今でも読まずにとってあります。心当たりの方はご連絡ください。

日本になりたかった

 「大人になったら何になる?」っていうミホ先生の質問に、「ケーキ屋さん」「サッカー選手」「お姫さま」「プリキュア」とみんなが答える中、マサシは「恐竜」と答えた。他のみんなとは違う断固たる口調だった。正直言って、その迫力に僕は圧倒された。ミホ先生は、それを聞いて「すごーい。大きいもんね」と言った。冷静に考えるとよくわからないコメントだ。大きいからなんだっていうんだ。

 でも、ミホ先生に恋心以前の淡い思慕を抱いていた僕は、褒められたマサシに嫉妬した。そして、もっと大きなものを言ってやろうと思った。そして、「僕は日本になる」と言った。当時の僕が知っている1番大きなものが日本だったのだ。ミホ先生も流石にコメントに困って、目を丸くしていた。

 あれから十数年が経った。20歳になった僕たちは、それぞれ夢を叶えた。ケーキ屋さんになった子もいれば、サッカー選手になった子もいる。もちろんお姫さまやプリキュアになった子もいるし、マサシは恐竜になった。スピノサウルスだ。

 技術革新に伴う生産性の向上によって、人は労働から解放された。その結果、人は労働によって社会的アイデンティティを持つことができなくなった。そのことを危惧した政府(といっても実態は高性能AIだが)は、すべての人の夢を叶えることにした。

 しかし、将来の夢っていうのはころころ変わる。大人になるにつれて夢は現実的で打算的なものになっていく。そういうところからはイノベーションが生まれないだろうという判断で、幼稚園で答えたピュアな夢を20歳になったら叶えるという制度が誕生した。

 発達した科学の力で、たいがいの夢は叶えられる。マサシも遺伝工学の力で見事な恐竜になった。ただ、「日本になる」という夢は現代の科学をもってしても叶えることが難しい。なぜなら、定義があいまいだからだ。もし、これが「日本列島になる」という夢だったら叶えることもできたかもしれない。だが、国土だけが「日本」ではない。国民も必要だろうし、制度的なものもそうだし、あるいは文化をも内包するかもしれない。

 様々な識者(といっても実態は高性能AIだが)が協議を重ねたが結論はでず、僕の夢は保留という形で流されてしまった。

 「何をなさっている方なんですか?」といった類の質問をされたときの僕の心細い感じが理解できるだろうか。夢を叶えた人はみんな充実してそうだ。幼いころに憧れていた純度100%のキラキラした生活を送っている。マサシもスピノサウルスとしてこの世の春を謳歌している。でも、僕は、僕だけは何者でもない。僕は僕というだけである。

卒業式を支配した経験

 どこの学校も今どきは行事にプランナーを入れるそうです。徹底した演出で感動を作り出し、見ている保護者を満足させるっていう戦略だと思います。やらされているこっちは別に面白くもなんともないんですけどね。小学校の運動会なんて、毎年毎年接戦で最後のリレーで勝負が決まるっていう筋書きだったから、前半の競技のモチベーションだだ下がり。しかも、リレーで勝つのは必ず物語を背負っているチームでした。「白組のアンカー、ナリタくんは去年ケガのため去年の運動会には出場できず、悔しい思いをしました」とか「赤組の監督トミカワ先生は、今年が最後の運動会です」とか、リレーが始まる前に過剰なアナウンスが入る。うんざり。

 うちの高校も、今年の卒業式はプランナーに演出を頼むらしい。なんてこった。まず、卒業生が集められて、その演出家の前で軽く演技や歌を見せることになりました。なんだか違和感はあったんだけど、言われるがままにしていました。卒業式の練習が進むにつれて気がついたんですが、この人、たぶんミュージカルの演出家だ。どこかで「式の演出」が「四季の演出」と混ざっちゃったんだ。

 わたしのようなパッとしない生徒には、パッとしない役があてがわれました。『ライオンキング』でいうところのガゼル役みたいなもんです。逆に、いわゆるイケてるグループには華やかな役がふられました。まあ仕方がないことです。彼女たちはオシャレだし、(誘われたことがないのでしりませんけど)カラオケとかもうまいんでしょう。

 わたしたち卒業生は、パートごとに練習を重ね、卒業式予行の日にはじめて全員集合しました。お互いにこの日まで何をやっていたのかよくわかっていなかったので、ここでようやく式の全体像がわかったのです。

 まず、「開式のことば」で教頭が高らかに会の開始を宣言する。すると雄大な音楽に乗って、わたしのような端役の生徒が次々と現れ、最後は音楽の盛り上がりとともに主役級の生徒の登場です。ステージがせり上がり、物理的にもスクールカーストの上下がハッキリ見て取れます。

 そのまま「国歌斉唱」。ただの「国歌斉唱」ではありません。ミュージカルバージョンです。途中で主役級生徒の独白なんかもはいります。そして、卒業生がヌーの大群のごとき様相を見せる「卒業証書授与」。つづく「学校長式辞」と「来賓祝辞」では、老いた王が若き獅子に希望を託して死ぬがごとく輝かしい未来へのエールが語られます。「在校生送辞」でも、後輩から見た卒業生がいかに偉大だったかということが神話のように語られていきます。クライマックスは「卒業生答辞」からの「校歌斉唱」です。主役級の生徒たちはクジャクのような羽を背負って、ステージ奥の大階段を下りてきます。わたしのような端役は客席まで下りて笑顔を振りまきます。

 まぁだいたいこんな感じの流れだったんですが、さすがに付き合いきれないので親に言ってクレームの電話を入れてもらいました。どうやら普通の卒業式になりそうです。

なんだかもう無茶苦茶だった。

 小3の息子が公園で水着を濡らしているというママ友からのタレコミ(LINE)があった。なんでそんな奇行を? ほどなくしてスイミングスクールからも「来ていません」という連絡が。謎はすべて解けた。サボったな。
 サボったのはよくないことだけど、水着を濡らしてアリバイ工作をするなんて、息子もすっかり知能犯だな、と感心しました。ですが、このまま知らんふりはできません。しっかり尻尾をつかんで、母にはかなわないということを知らしめてやらなくては。
 そんなことは知らない息子は何食わぬ顔で帰宅。私もいきなり証拠を突きつけたりはしません。まずはジャブで「今日はどうだった?」と聞くと「ふつー」という返事。多くを語らないことでボロを出さない作戦か? なかなかやるな。
 それならばと「今日は塩素の臭いしないね」とカマをかけてみる。「えんそって何?」しまった。まだそこまで知識がなかったか。「プールの水に入ってるお薬だよ」「今日、めっちゃシャワー浴びたから」「なんで?」「となりのコースに臭い水をかけてくるやつがいた」

 ふふふ。バカな息子め。「がんばったから、汗いっぱいかいた」とか言えばごまかせたものを。「その子はどうしてそんなことするの?」「わかんない。クセみたいなもんじゃない?」

 これ以上臭水BOY(臭い水をかけてくるやつのこと)のことを掘り下げても仕方がないと判断した私は、いよいよ息子を追い詰める段階に入りました。

 「先生から今日来てないって連絡があったんだけど」さぁ、これでどうだ。素直に認めれば許してやろう。言い訳するようならゲームを没収する。「変なやつに顔盗まれたんだよ。だからスペアの顔で行った。ほら」そういって息子はプールバッグからゴムマスクみたいなものを取り出した。「これ被ってたから先生間違えちゃったんじゃん?」小道具まで用意して、なかなか凝ってるな。

 「いまはいつもの顔じゃん」「盗んだやつが公園にいたからはるちょ(お友だちの陽千代くんのこと)が捕まえてくれた」うーん。言ってることは無茶苦茶だけど、ギリギリのところで破綻してない。

 しかたなく「嘘つかないの! 顔を盗む人なんて聞いたことない!」とちょっと大きな声を出してみました。すると息子は泣きながら「なんでママは信じてくれないの!バカ!」と言って怒り出しました。

 結局、来週のスイミングスクールには一緒に行って確かめることになりました。もしかしたら、ちょっとかまって欲しくて色々やってしまったのかな。まだまだかわいいな。

 実際にスイミングスクールに行ってみると、途中でやたらと息子の顔を剥ごうとしてくる顔のない子どもはいるし、なんかよくわからない生き物が臭い水を撒き散らしながら泳いでるし、もう無茶苦茶でした。ごめんね、息子。

(何度考えても、公園で水着を濡らすという行為の意味がわからなくて、それが一番怖い)