古時計が聞けない

 履歴書の長所欄にいけしゃあしゃあと「責任感が強い」と書いてしまう僕ですが、バイトをバックれて辞めたことがあります。でも、それもこの責任感の強さ故なんです。ここに懺悔します。

 18の時に静岡から上京して西東京の大学へ通いはじめた僕は、オシャレな生活に憧れて、とにかく気合いがみなぎっていました。いま考えると、もう少し肩の力を抜けよって感じなのですが、当時は必死でした。

 バイト先はカフェでないとと決めていました。しかも、スタバとかドトールではダメです。個人経営の、できれば夜はバーとして営業しているところを探しました。何軒かアタックして、日本茶中国茶のカフェで働くことになりました。(いま思うと、静岡出身だから採用されたのか?)

 そのお店は、普通のマンションの中にあり、そういう隠れ家チックなところも気に入りましたし、内装もアンティーク調でオシャレでした。店内には古時計(「こどけい」と呼ぶのがマニア的には正しいらしい)がたくさんあって、3の倍数の時間になると一斉に鳴るというワクワクするような演出もありました。(すぐに飽きましたが)

 バイトをはじめてしばらくした時、近くの高校の制服を着た女の子が店に来ました。見るからに文学少女といった趣です。(といっても、これは悪い意味。根暗そうで、本を読むということで周囲との差異化を図っているような感じ。)その子は店に入るなり「素敵なお店」とつぶやきました。ジブリ映画『耳をすませば』的世界観に浸っているご様子。

 とはいえ、僕も僕でそういう世界観で生きていたので、調子に乗って話しかけたりしました。その女の子から「喫茶店にいる落ち着いた雰囲気のお兄さん」という風に見られるのが嬉しくてたまらなかったのです。その女の子はそれなりの頻度でうちの店にやってきたので、すぐに顔見知りと言っても差し支えないくらいの関係になりました。

 ある日、女の子が恥ずかしそうに紙の束を差し出してきました。一瞬、ラブレターかなとも思いましたが、それはその子の書いたオリジナルの小説でした。まんま『耳をすませば』的展開。「感想を聞くまで帰りません」と言われそうな雰囲気でしたが、「仕事中に読むわけにはいかないから、明日までに読んでおくね。」と返事しました。

 帰ってから、その小説に目を通すと、タイトルは『天使と猫の古時計』でした。

 それを見た瞬間、猛烈な恥ずかしさが僕を襲いました。その小説に対してではありません。それまで僕が生きていた世界観すべてが猛烈に恥ずかしくなったのです。

 僕は、お店に行って、あの女の子に「あなたの切り出したばかりの原石を、しっかり見せてもらいました。よくがんばりましたね。あなたはステキです。」的なことを言わなければなりません。でも、どうしても恥ずかしくなっちゃって、それができないのです。あんなに気持ちよかった「喫茶店の素敵なお兄さん」役が、いまはもう抹殺したいくらい恥ずかしいのです。

 こうして、僕はバイトをバックれました。今でも古時計の音が聞こえると、恥ずかしくて「ああああああぁぁぁ」と叫びたくなります。もう二度と古時計は聞けません。あの小説は今でも読まずにとってあります。心当たりの方はご連絡ください。