外国人観光客は満員電車で喜ぶらしいですよ2

 毎朝満員電車に乗って通勤している。満員電車に乗るときのコツは自我を捨てることだ。自分が自分であるという意識を捨てて、モノのようになることだ。たまに電車内でケンカをはじめる愚か者がいるが、修行が足りん。自我を捨て去れば争いなど起きるはずはないからだ。あと、電車が遅れるから迷惑なのでやめてほしい。

 満員電車の中では、自分がどんな体勢になるかも選べない。いくつもの偶然が影響して、ひとつの形に落ち着く。そして駅から駅へ運ばれていくのだ。満員電車は禅の修行にも通じる無我の境地へと続く高い精神性がある。(禅の修行などしたことはないが)

 今朝も私は自我を消し去り、流れに身を任せた。いつもより多少は空いていたのだろうか、座席の前のスペースにたどり着いた。(空いているのであれば、車内中ほどまで進むのがルールだ)

 座席の前のスペースは、実は上級者向けだ。座席に座っている人は、無我の境地に達していない場合が多い。だから、うっかり足を踏んでしまったり、後ろから押された勢いで倒れ込んだりしてしまうとトラブルになりやすい。私はいつもより緊張感をもって、少し踏ん張りを効かせるような形で立った。

 私の目の前に座っているのは、50代前半くらいの男性。身につけているものから判断するに、裕福そうだ。眠っているようで表情はわからないが、眉間のあたりの雰囲気から、少々頑固そうな性格がうかがえる。

 その男性と接触しないように気を張りながら過ごしていたが、しばらくしたら男性は目を覚まし、急に立ち上がった。まだ次の駅に着くには少し早い。そういうわけで、私はつり革を掴んだまま少し後ろに下がり、その目の前に男性が立っているという状況になった。満員電車なので、お互い身動きがとれる範囲は非常に狭い。

 ここで私は大変なことに気がついた。もし、いま私がつり革を手放してしまうと、振り子の要領で輪っかの部分が男性の頭にガーンッと当たってしまう。かといって、離さないことには男性を通すスペースを空けることができない。

 電車はだんだんと速度を落としてきた。そろそろ次の駅に着く。私は男性の顔を見た。目は合わなかったが、男性が私のことを強く意識しているのは伝わった。男性はつり革に当たらずに降りたい。私はつり革を当てずに道をあけたい。

 2人の想いはひとつだ。そう確信して、私はつり革から手を離し、道をあけた。私の手から離れたつり革は、円軌道を描いて男性の頭にガーンッとぶつかった。男性は「チッ」と舌打ちして、乱暴に電車から降りていった。