abさんご

 わたしはジョンの体を洗ってあげる。濡れた毛が黒曜石のように光って綺麗だ。
「今日もお疲れさま」
 ジョンとわたしは仕事のパートナーだ。ジョンは職場で「麻薬犬」と呼ばれている。わたしはその呼び方に違和感がある。だってそれじゃあまるでジョンが麻薬をやってるみたい。きちんと「麻薬捜査犬」と呼ぶべきだ。わたしは「ジョン」と呼んでいる。
 石鹸を落とすとジョンは浴室から出ていってしまう。お風呂嫌いなのだ。わたしも後に続いてタオルで体を拭いてあげる。それから自分のためにお風呂に戻る。


「あ゙〜」
 湯船に入ると無意識におっさんみたいな声が出てきてしまう。一日のうちでお風呂に入っている時が一番しあわせかもしれない。わたしはジョンと違ってお風呂をゆっくり楽しむ派だ。お風呂用のオーディオから音楽を流して、お湯につかりながら本を読む。
 お風呂で読む本は半魚人の本に限る。水の中で読んでいると、なんだか自分が半魚人になったような気がしてすごく感情移入できるし、何より耐水性が半端じゃない。本が濡れないように気をつける必要がないのだ。
 中身だって面白い。半魚人の王子様に恋した人間のお姫様が、自分の美しい声と引き換えにヒレを手に入れる童話『人姫』や、SF冒険譚『地上2万マイル』、ハードボイルド小説『老人と陸』などなど。のちに優れた文学性が認められ、地上人向けにアレンジされた作品も多数ある。
 しかし、今や半魚人の本は入手困難だ。20世紀に行われた半魚人迫害の流れで、半魚人が書いた本は焚書されてしまった。そして組織的な大虐殺の結果、半魚人は滅びてしまった。半魚人の製本技術は未だ解明されておらず、もう今後半魚人の作った本が増えることはない。わたしは古書店めぐりやインターネットオークションで探しているが、なかなか見つからない。


 麻薬取締官の仕事は決して楽しいものではない。フィクションの世界みたいにスリルに満ちてもいない。大学を卒業した後すぐにこの職に就いたので、他の仕事がどんなものかはしらないが、結局、現実はどこまでも現実だ。
 麻薬をやってる人の多くは麻薬のために傷つき、そして依存している。わたしは自分の仕事を正しいことだと思っているし、自分がやらなかったとしても絶対に必要なことだと思う。それでも、わたしたちの仕事は他人から“奪う”仕事だということを感じずにはいられない。麻薬をやっている人は、それだけ何かに追い詰められているのかもしれない。もし生まれ育った環境が違ったら、こんなものに手を出さなかったかもしれない。でもそんな背景は無視して、わたしたちは麻薬を取り締まる。それは良くも悪くもその人の人生を大きく変えることになる。「自業自得だよ」という人もいるけど、わたしはそんな風に割り切れない。


 ジョンとわたしのコンビは優秀だった。表彰されたこともある。しかし、麻薬探知犬老い麻薬取締官よりも早い。
 ある日、ジョンが麻薬を見つけたとわたしに合図をくれたので、中年男性の荷物をチェックすると、座薬が入っていた。もしかして座薬に見せかけて税関を通過する作戦かと思い、男性を拘束したまま座薬を分析班に回した。しかし、結果はシロ。この日を境にジョンは少しずつ麻薬探知犬としての力を失っていった。
 一年も経たないうちにジョンはすっかり座薬探知犬になってしまった。人の悪事ではなく痔を暴くようになった。すぐに引退が決まった。


 わたしもジョンと一緒に仕事を辞めることにした。周りの人たちは驚いて止めてくれたけど、わたしは別に感傷で仕事を辞めるわけじゃない。このままいつまでも続けられるとは思わなかったし、ちょうどいいタイミングだった。わたしは無理を言ってジョンを引き取り、職場を去った。


「これから、どうしようね」
 今後についてアテがあるわけでもなかった。でも、貯金もいくらかあるし、少しの間、ジョンとのんびりしようと思った。
 白い海岸を黒いジョンと並んで歩いていると、ジョンが急に走り出し、波打ち際から何かをくわえてきた。
「なに? また座薬?」
 もういいんだよ。そう呟きながらジョンがくわえていたものを受け取った。
 それは本だった。波打ち際にあったのに、ジョンがくわえてきたのに、シワシワになっていない。タイトルは『ab珊瑚』、知らない本だ。すぐに奥付を確認する。
――2013年1月20日  第1刷発行