ライ麦畑にキャッチャー

 僕はいつも中腰でボールが来るのを待っている。何故なら僕はキャッチャーだからだ。日本語で言うならば捕手だからだ。キャッチャーの仕事はピッチャーの投げたボールをキャッチすることで、僕はいつもライ麦畑でボールを待っている。ここが僕の守備位置なのだ。ライ麦は1.5メートルくらいまで成長するから、中腰になってキャッチの姿勢になった僕はすっかり隠れてしまう。当然、ピッチャーの姿も見えない。と言うよりも、ライ麦畑は野球をするのに適していないようだ。僕がライ麦畑でピッチャーをやるようになってから、僕のミットにボールが収まったことはまだ一度もないし、周囲から野球の匂いを感じたこともない。でも僕は、夢のため、年棒のため、毎日このライ麦畑で中腰になる。

 このライ麦畑に毎日来る人が、僕の他にもう1人いる。街のパン屋さんの一人娘アキさんだ。アキさんはパンに使うライ麦を毎朝取りに来る。僕はライ麦に隠れてしまっているので顔を合わせたことはないけど、いつも気配を感じる。なんだか物陰からこっそり見ている変態みたいでイヤだから、本当は気さくに挨拶したりしたいんだけど、まぁ仕事中だし、挨拶してる間にボールが飛んできたりしたらシャレにならないから、結局ライ麦の陰で「あ、今日もアキさんが来たな」と思うだけになってしまっているのが現状だ。

 その日も「あ、今日もアキさんが来たな」と思った。ただ、その日はいつもよりもアキさんの気配が近くに感じた。
ガサガサ。ガサガサ。
 目の前のライ麦が割れて、アキさんが現れた。アキさんは「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。僕はキャッチャーマスクを脱いで、挨拶をした。
「おはようございます。驚かないで。怪しいものではありません。キャッチャーです」
「ビックリしたわ。こんなところに人がいるなんて思ってもいなかったんですもの。ジェイソンかと思いました。こんなところで何をなさっているの」
「ジェイソンが被っているのはホッケーマスクです。僕のはキャッチャーマスク。僕はここで、ボールを待ってるんです」
「まあ! それじゃあ、プロの野球選手なのね」


 それからというもの、毎朝アキさんは「キャッチャーさんいらっしゃる?」とライ麦畑に声をかけ、そして僕にパンをくれた。しかし、ボールは一向にやってこない。
「ボール、きましたか?」
「いえ、まだです」
 そんな日々がしばらく続いた。


 ある日、いつもは静かな昼のライ麦畑に人の気配がした。まさか、ピッチャーか。そう思うが早いか、目の前に、白い、丸いものが飛び込んできた。僕は慌ててそれをミットに収めた。やった。ついに、やった。人生初キャッチ。
 なんだか信じられないような気持ちで、自分が捕らえたものを確かめた。しかし、それは確かに白くて丸かったが、ボールではないようだった。赤い糸を使った108の縫い目もないし、少しあったかくて、柔らかい。
――それは、パンだった。


 僕はその日のうちに街を出た。もうあのライ麦畑に行くことはないだろう。そして、アキさんに会うことも。北へ向かう列車の中で、唯一の荷物であるミットを眺めた。
「これからどうしよう」
 正面から見たキャッチャーミットは、少しパンに似ていた。