あちら側

 正月に実家に帰ったんですよ。そしたら姉もいて、何故かあたしは甥の面倒をみるように頼まれてしまったんです。
 甥の名前は空海(ひろみ)っていいます。初めて聞いたときはオイオイって思いました(甥だけに)。空海はいま2歳だか3歳だかで、まぁわりとかわいい存在ではあるんですけども、普段子どもと接する機会がまったくないあたしとしましては、この甥は異世界の住人、つまり妖怪と変わらないわけです。
 突然姉に妖怪を押しつけられたあたしは「お菓子でも買ってやれば手懐けられるだろう」と思い、夕飯の買い物ついでに甥と散歩することにしました。
 散歩に適しているだろうと、河川敷を歩いていると甥が話しかけてきました。


「この川は淀川?」
「違うよ。利根川だよ」
「でも、野球場があるよ?」


 いや、河川敷に野球場がある川がみんな淀川なら日本の川の8割は淀川ということになってしまうじゃないか。しかし相手は妖怪。どうやって利根川が淀川ではないことを伝えればよいのやら……


利根川にも野球場があるんだよ」
「じゃあ淀川とどう違うの?一緒じゃん。淀川じゃん」


 こ、こいつ……手強いぞ!そう思った瞬間、あたしの脳裏にハゲ頭のお坊さんが浮かびました。


「そなたは俗世に長く居すぎたせいで、真実を見る目が曇ってしまったようじゃな。淀川だの利根川だの人間が与えた呼び名に過ぎぬ。川の本質は流れる水。循環する水の前では、淀川も利根川も同じ存在なのじゃよ。」
「あ、あなたは……真言宗の開祖、弘法大師こと空海(くうかい)さま!」
「ほっほっほ。今回は幼子に教えられてしまったようじゃの。」
「はい。どうやらそのようです。これは完全に余談ですが、学生時代、あなたと天台宗の開祖・最澄を区別して覚えるために『天才の真空パック』という語呂合わせを使っておりました」
「今回の気持ちを忘れずに精進するんじゃぞ……」


 そう言って空海和尚の幻は消えてしまいました。目の前には上の空になったあたしを心配そうに見つめている甥の空海がいます。


「どうしたの?大丈夫?」
「……チグリス川


 何故かあたしはメソポタミア文明の近くを流れていた川の名前をつぶやきました。


「チグリス?」
「ううん。なんでもないの。大丈夫だよ」
「チグリス!チグリス!」


 どうやら空海は「チグリス」という響きを気に入ったようで、それからスーパーに着くまでずっと自分で作った「チグリスの歌」を歌っていました。正確にいうと最初チグリスだったのが段々変化してきて、「チングリスの歌」になっていました。歌詞も「チンチングリグリッス〜♪」みたいな感じだったので、恥ずかしかったです。しかし学生時代のあたしでさえ「チグリスって『ちちくります』を短く言ったような感じがしてどことなくいやらしいなぁ」としか思っていなかったのに、こんなストレートな下ネタを創造してしまうとは、やはり汚れなき幼子はすごい。

 スーパーに着いたあたしは、空海ポケモンの指人形みたいなのを店にあった全種類買ってあげました。空海は喜びのあまり「チングリスの歌」を完全に忘却してしまいました。それにしても2000円弱で買収できるなんて安い男だ。
(帰ってからあたしは姉に「甘やかさないで!」と怒られました)





(最初は叙述トリックを使って、あたしと甥と妖怪の三人で散歩をしていたことにして、「チングリスの歌」を歌ってたのが実は空海和尚だったってオチにしようと思ったのですが、あまりに失礼なのでやめておきました)